20年以上前、研修に入った農場で、 毎夕、豚の世話をしていた。 名前を付け、声を掛け、 ブラッシングなどして可愛がれば、 懐いて扱いやすくなり、 飼い主への信頼から精神が安定し、 繁殖でも良い成績が出せる、と本で読んだ。 試してみると、若い母豚がすぐに懐き、 懐かれれば可愛くもなり、 管理作業が楽しくなった。 私の事を、動物好きだと言う人がいる。 好きだけで、毎日毎日、何ヶ月も 動物の世話を繰り返せるだろうか? 家畜を手懐け、可愛がるのは、 愛玩のためではない。 一種の農業技術なのである。 以前寄宿していた所で世話をしていた山羊が、 先週亡くなった。 私の物でない山羊が、 どのように扱われ、どんな結果が訪れたとしても 仕方ない事ではある。 けれども、その山羊が飼われていたのは、 農的生き方を求める人々が暮らす場であった。 秋に搾乳を止めた山羊の世話は、 草を刈って与え、水を替えてやる、ただそれだけ。 一日10分の世話で済むはずのこと。 それきりの作業を、誰もやらなかった日が 何日続いたのか。 たったそれだけの、ついで仕事が出来ぬなら、 生業としての農業を、どうやって営めるのか。 たったそれだけの時間が工面出来ぬなら、 半農半Xの忙しさを、どうやってこなせるのか。 たった一頭の山羊の命を、 「仕方ない」の言葉で切り捨て、 一日10分の作業を惜しんだ心が、 どんな農を営むと言うのか。 そう言って、あの住人達を 本気で説得しなかったのは、私だ。 他人に強制はできない、仕方がないと 私も早々に諦めてしまった。 私も山羊の命を切り捨てていた。 だからあの子は、生きられなかった。 あんなふうに死なせてしまうくらいなら、 あの山羊を買い取り、屠殺し、山羊汁にして、 皆に振舞えば良かった。 その方が、よほど納得のいく結末だった。 農とは生き物と付き合う、という事である。 鶏なら雛を入れて数ヶ月は玉子を産めない。 山羊なら最初のお産までの2年間、乳を出せない。 それでも囲われている家畜は、 人間が世話をしなければ、飢えて死ぬ。 だから毎日の管理作業は、何があっても欠かせない。 人間の利益以上に手間ヒマの掛かる、 割に合わない生き方、 それが農的生き方である。 生き物と付き合う限り、 収穫時の世話だけで足りるなど、ありえない。 搾乳時だけ関わり、あとは知らぬというのは、 農ではない。 家庭菜園しかやらないと宣言している私が 農を語るのは、笑止だろうか。 農的暮らしに憧れ、 気楽にやっているだけの奴が何を語るか、と嘲るだろうか。 だが私が居た頃、 あの山羊は、健やかに福々しかったではないか。 私が居た間、 あの山羊は死ななかったではないか。 農には、技術も知識も体力も必要だ。 しかし何より、 生きる物をいとおしむ心があってこそ、ではないのか。 生きている物を感じ、慈しみ、 守ろうとする心を失くしたからこそ、 農薬や化学肥料が普及した。 そうではないのか。 農を志す彼らの門出を、私は祝福する気持ちになれない。 最後の朝、山羊の様子を見に行った。 私の手からヨモギを食べ、水を飲んだ。 出勤の時間がせまり、そそくさと立ち去る際、 振り返って見たあの山羊の姿は弱々しく、 恨めしげな眼をしていた。 もう限界が来ている、と自分で悟っていたのだ。 私が助けてくれるかも知れないと、 抱いていたわずかな望みと信頼を 裏切られた失望の顔であった。 この一年半の間に、笑ったり、拗ねたり、悲しんだり、 様々な顔を見せたあの山羊の、最後の表情は 私への失望であった。 消えた命は戻らない。